2010年04月27日

西那須野の発展と華族農場

 昨日、「西那須野地区の自然と歴史」と題する講演会があった。その席上、北那須郷土史研究会長である講師の先生から興味のある話を伺った。
 少し、固い話になるが、 那須野が原の開拓の歴史は、庶民の血と汗の結果である。しかし、現在の発展につながる道路、鉄道など社会的インフラの整備は、華族農場の存在なしには考えられないというものであった。
 明治になり、遠い北国、北海道の開拓が国策ではじまったが、東京から僅か150kmの場所にこの那須野が原といわれる広大な未開の原野が横たわっていることに時の権力者が目をつけた。彼らは明治維新の功労で顕職に昇りつめた役人、江戸時代の旧藩主などであった。その大部分が爵位を持ち、華族に列せられている。
 彼らは競って広大な土地の払い下げを受け、農場を開設した。その当時明治政府によって、国内の道路、及び鉄道の整備が進められていたが、英邁な華族はこれらの社会的インフラが発展の強力な武器であることを十二分に認識していた。なるほど現在の栃木県内の国道4号、東北本線の経路を見ると宇都宮と白河の間だけが当時までは往来・物流の基幹路線であり宿場が発達した旧奥州街道から北側に外れている。
 国道は、当時の栃木県令(知事)であり土木県令とも言われた三島通庸が、自分の農場内に引いた。「三島碁盤の目」と呼ばれる、区画整理された農場内に塩原街道とともに新陸羽街道として建設した(明治17年)。

クリックすると拡大国道

クリックすると拡大三島碁盤の目

更に鉄道は明治初年欧米視察の経験がある大山巌が、従兄弟の西郷従道と組み、自分達の農場の一部を寄付して西那須野駅が開設された(明治19年)。大山巌の最初の夫人は鉄道を敷いた日本鉄道の社長の娘であって、強力な縁故があったからだという。
半ば定説になっているように、大田原城下の民が反対しようが賛成しようが、時の権力者にはとても歯がたたなかったのだという話であった。

クリックすると拡大鉄道


こうした近代文明の恩恵を感謝したい。国道は高速道路に、鉄道は新幹線につながり、この便利な西那須野が出現したのだから。

尚、「にしなすのダウンタウン物語」http://www.sosui.net/tmo/downtown/story.htm
「不如帰ネット文学記念館」
http://www.sosui.net/hototogisu/hototogisuindex.htm
にも関連する記事が載っている。

西那須野の情報ウェブ そすいネット
http://sosui.net/index.htm

posted by 住むなら西那須 at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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