2010年06月17日

原街道 北を指す!

そすいスクエア アクアス建物正面の道路、建物の完成と共に整備されて、真っ直ぐで気持ちが良い。晴れた日には正面に那須岳が望める。

原街道北を指す

 北を向いているなと思って試しに、方角磁石を当ててみると、ほぼ真北である。この道は下のブログで取り上げたように、江戸時代の奥州街道の脇街道「原街道」である。白河から氏家の鬼怒川・阿久津河岸まで、米運搬の裏街道として会津藩によって整備されたという。恐らく何もなかった那須野が原では、北極星を目印に道が付けられたのだろう。地図を辿ると、二つ室の常盤ヶ丘付近はものの見事に真北である。

http://nishinasuno.seesaa.net/archives/20100427-1.html

西那須野の情報ウェブ そすいネット
http://sosui.net/index.htm
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2010年04月27日

西那須野の発展と華族農場

 昨日、「西那須野地区の自然と歴史」と題する講演会があった。その席上、北那須郷土史研究会長である講師の先生から興味のある話を伺った。
 少し、固い話になるが、 那須野が原の開拓の歴史は、庶民の血と汗の結果である。しかし、現在の発展につながる道路、鉄道など社会的インフラの整備は、華族農場の存在なしには考えられないというものであった。
 明治になり、遠い北国、北海道の開拓が国策ではじまったが、東京から僅か150kmの場所にこの那須野が原といわれる広大な未開の原野が横たわっていることに時の権力者が目をつけた。彼らは明治維新の功労で顕職に昇りつめた役人、江戸時代の旧藩主などであった。その大部分が爵位を持ち、華族に列せられている。
 彼らは競って広大な土地の払い下げを受け、農場を開設した。その当時明治政府によって、国内の道路、及び鉄道の整備が進められていたが、英邁な華族はこれらの社会的インフラが発展の強力な武器であることを十二分に認識していた。なるほど現在の栃木県内の国道4号、東北本線の経路を見ると宇都宮と白河の間だけが当時までは往来・物流の基幹路線であり宿場が発達した旧奥州街道から北側に外れている。
 国道は、当時の栃木県令(知事)であり土木県令とも言われた三島通庸が、自分の農場内に引いた。「三島碁盤の目」と呼ばれる、区画整理された農場内に塩原街道とともに新陸羽街道として建設した(明治17年)。

クリックすると拡大国道

クリックすると拡大三島碁盤の目

更に鉄道は明治初年欧米視察の経験がある大山巌が、従兄弟の西郷従道と組み、自分達の農場の一部を寄付して西那須野駅が開設された(明治19年)。大山巌の最初の夫人は鉄道を敷いた日本鉄道の社長の娘であって、強力な縁故があったからだという。
半ば定説になっているように、大田原城下の民が反対しようが賛成しようが、時の権力者にはとても歯がたたなかったのだという話であった。

クリックすると拡大鉄道


こうした近代文明の恩恵を感謝したい。国道は高速道路に、鉄道は新幹線につながり、この便利な西那須野が出現したのだから。

尚、「にしなすのダウンタウン物語」http://www.sosui.net/tmo/downtown/story.htm
「不如帰ネット文学記念館」
http://www.sosui.net/hototogisu/hototogisuindex.htm
にも関連する記事が載っている。

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2009年11月10日

直江兼続と高原山

NHK大河ドラマ「天地人」のお陰で、新潟魚沼、会津、山形米沢などの直江兼続ゆかりの地が観光客で混雑しているとか。西那須野からは比較的近いこともあり、近所の人達も足を運んでいるようだ。
下の写真を見て頂きたい。新幹線の通る西那須野市街地の後方に見える高原山である。見慣れた景色であり、ハンターマウンテンのスキー場もあり身近な存在である。

高原山遠望

さて、藤沢周平作品「密謀」は30年近く前に書かれた 直江兼続を主人公にした新聞連載小説である。
中にこのような部分がある。

「白河口こそ、わが上杉の興廃を決する土地となった。」兼続の手の竹は、弧を描いて南山口から下野の丘陵地帯に至る道を示し、その先の一点を指して止まった。「塩谷郡高原。ここに一万の兵を伏せる。この一軍はそれがしがひきいて行くことになろう。」(中略)そして直江兼続は、兵一万を率いて白河口のはるか前線、高原の山麓の間にひそみ、休みなく軽騎の物見を放って徳川郡の動きをさぐっていた。先発の徳川軍はすでに宇都宮に到着し、その中の先鋒の一隊は、直江隊の眼下を通り過ぎて佐久山大田原まで進出していた。

これを読むと妻夫木聡扮する直江兼続が、かつて近くまで来ていたのかと親近感を覚える。
 この時代の背景は、上杉藩が越後から会津に移封され、直後徳川家康との決戦に備えて、築城などの普請を行い、家康から糾問されて「直江状」を送り、家康の逆鱗に触れ、兵を差し向けられた時の話である。尚 家康は小山まで北上したところ、石田三成が関ヶ原で挙兵した報で、南転したため合戦とはならなかった。「幻の革籠原(皮籠原)の合戦」といわれているものである。また小山での家康主催の軍議は「小山評定」として知られている。
 この戦記には異説もあるようだが、兼続ゆかりの地として観光整備したら面白いかもしれない。
 
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2009年04月23日

栃木県最初のLRT?

 こうタイトルをつけるが、もしかすると間違っているかもしれない。(事実関係を確認出来る方にご指摘いただけると幸いです。)
 今、県都宇都宮市にLRTを設置するについての是非が話題を呼んでいる。

 この西那須野の歴史を調べていたら、JR西那須野駅と塩原温泉口を結ぶ軽便鉄道が明治45年に完成、その後 路面電車に改修されて昭和11年まで運転されたと記録に残っている。LRT(軽量軌道交通)と路面電車は厳密には異なるが、この頃、西那須野地区では路面電車が一般道路を他の交通と一緒に走っていた。

 下のレトロな写真は、昭和7,8年頃、陸軍のサイドカー(オートバイ)と路面電車が交通事故を起こした時のものである。道路は勿論未舗装の砂利道であるが、2つの車両が併走していたことがわかる。
歴史的に県内の他地域に路面電車がなければ、これが最初のLRT?だったかもしれない。

路面電車の交通事故
  (写真は 那須野が原博物館 提供)

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2009年01月21日

西那須野の「永田町」

 こうタイトルをつけると、えっ西那須野の「政治」の話と早とちりする方がいるだろうと、にやにやして記事を書く。
 今、日本で「永田町」といえば国会議事堂があることから、「政界」の代名詞になっている。自民党、民主党に加え、地元選出の渡辺喜美衆議院議員の行動が話題になっている。全て「永田町」の話題で総括されている。しかし
Wikipedia(「永田町」で検索してください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E7%94%BAによれば、明治時代は陸軍省があったため、永田町といえば陸軍参謀本部のことをさしたのだそうです。実は、この西那須野の永田町、明治の元勲、当時の陸軍の将軍であった従兄弟同士の西郷従道(つぐみち)、大山巌(いわお)の二人が明治16年、この那須野ガ原の払い下げを受けて、農場を開き、自分たちが東京で住んでいた永田町の地名をつけた。つまり東京の永田町に由来している訳です。ちなみにご存知でしょうが、西郷従道はあの有名な西郷隆盛の弟です。NHKドラマ「篤姫」にも一度名前が出ました。
その後発展を遂げた西那須野、本家 東京の永田町に劣らない。関連するそすいネットのサイトを是非ご覧下さい。

  西那須野ダウンタウン物語
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  不如帰ネット文学記念館
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2009年01月15日

北風寒し

 今日は、強い北風が吹き荒れて、終日野外は寒かった。最近の気密度が高い住宅では、風が吹き込まないどころか、ヒューヒューと鳴る風の音も室内では聞こえない。
 しかし、開拓の昔にたどると、この地特有の冬の北風対策が大がかりに行われていた。
 那須野が原博物館中庭の説明図を転載すると次のようである。

風よけ対策

先ず、屋裏 かつては街中でも、屋敷林として、住宅の北側に杉の木が並んで立っていたものである。今でも赤田地区の田園地帯には幾つか名残を見ることができる。確かに那須野が原博物館内に復元されている開拓農家は「ござ」で外と仕切っているだけである。木の風よけにすがったのだと思うとかつての過酷な生活が忍ばれる。

次は 土塁 大山別邸に今でも残るものだが、あの頑丈な煉瓦作りの住宅でも、このような大がかりな工事をして風よけをしたのかと思うとびっくりする。

 大山別邸土塁

土塁については那須野が原博物館の建物の北側に、屋裏と並んで復元されている。

yaurafukugen.JPG

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2008年05月29日

ポッポ通り

 今日の、朝日新聞夕刊の連載シリーズにいよいよ、東野鉄道の廃線跡が登場。そうです。わが町自慢の「ポッポ通り」です。
 歴史のモニュメントがあって素晴らしいとの記事ですが。何より自然が素敵。と思います。
 
東野鉄道朝日記事



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2008年04月15日

開墾記念祭2008

今日は朝から天気に恵まれ、恒例の開墾記念祭。
明治18年4月15日この烏ヶ森の丘の上で行われた疏水開削の起工式にちなむもの。西暦1885年のことだから、今から124年前のことになる。
 旧西那須野地区だけでなく、那須塩原市全体の小学6年生が集まり、賑やかに式典が行われた。
 今年は白いこぶしがまだ咲いていて、散り始めたソメイヨシノと共に、彩りを添えた。

開墾記念祭2008


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2008年03月20日

西那須野と日銀総裁

 今朝の朝刊には、日銀総裁が戦後初めて空席になる。世界的な金融危機が叫ばれる今、大きな懸念が。の記事が大きく載っている。
 そういえば、旧西那須野ゆかりの日銀総裁がいたな。と俄かに思い出した。

三島弥太郎

貫禄ある肖像である。第8代日本銀行総裁 三島弥太郎氏である。
そう、三島通庸氏の長男でわずか13歳のとき、三島地区開墾の代表者として登場する。

「三島弥太郎ほか3名により、栃木県令(県知事)宛、土地払い下げの申請が出された。こうして出来た肇耕社(ちょうこうしゃ)が那須野ヶ原官有原野の民間第一号の開拓地である。(西那須野町開拓史、2000)」

彼はその後、駒場農学校を卒業し米国に7年半ほど留学。帰国後貴族院議員をへて、横浜正金銀行頭取。大正2年日銀総裁。第一次世界大戦の最中、大正8年現職で死去。
 尚弥太郎氏の孫 義温(よしやす)氏は西那須野の前身 旧狩野村の戦後初代村長。先年 町主催の開拓120年シンポジュームにお元気な姿で登場された。

余談)
若き弥太郎
 さて この写真は誰であろう。
実は、若き弥太郎氏である。
 弥太郎氏は帰国直後、大山巌元帥の娘、信子さんと結婚するが、程なく彼女の病弱から離婚する。信子さんの死後、徳富蘆花により、二人の悲恋の話が 小説「不如帰(ほととぎす)」としてベストセラーになる。

この辺の経緯は「そすいネット」の中の「不如帰ネット文学記念館」へ是非、お立ち寄りください。
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2008年02月21日

ここまで予想したかな?三島通庸さん

 先日発行になった三島コミュニティの地図。西三島に続いて建築中の東三島公民館ものっている。
 現在、公民館周辺では住宅分譲地、賃貸マンションの建築ラッシュ。地元の不動産屋さんに聞くと、碁盤の目状に道路が整備されている三島地内(「三島ごばんの目」と呼ばれている。「栃木県土木遺産」として栃木市の県庁堀と一緒に登録されている。)の人気が抜群に高いのだそうだ。
 ものの本によると、碁盤の目状の道路は、奈良、京都の条里制の路、近代の北海道を除くと、極めて珍しいそうだ。
 栃木県令 三島通庸さんが三島農場を開くとき、農地を一区画60間x50間=3000坪=1町歩=1haとして大八車のすれ違える約2間幅の道路で縦横区切ったという。(地図の緑で囲んだ区域)
 今かつての農地がどんどん宅地に変わっている。区画整理されたような土地。三島さんは120年後に農地がこのように住宅地に変貌すると予想したのだろうか。
 偉大な住宅地デベロッパー 三島通庸さん。

三島コミュニティマップ


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2007年04月12日

優駿の桜

 高柳の運動公園のグランドを囲む桜並木。本日が満開。

運動公園の桜

 ここはかつて、政治家河野一郎(現衆議院議長河野洋平氏の父)が経営する那須野牧場(当時は河野牧場と呼んでいたな)第二牧場だった。その頃、現在の南側の団地まで合わせた広い敷地に、白い馬柵で囲まれた競走馬の調教コースがあった。かつて那須野牧場からはナスノコトブキ(菊花賞)、ナスノカオリ(桜花賞)などのGT優勝馬が輩出した。これらの馬も若齣の頃この馬柵の中を走り抜けたのかもしれない。
 宮本輝原作緒方直人、斉藤由貴主演の映画「優駿」で、主人公「オラシオン」が桜吹雪の中を疾走するシーンが印象的であった。きっと同じような風景だったのであろう。
 今、那須塩原駅から上りの新幹線に乗ると、間もなくこの運動公園の桜が圧倒的な迫力で目に入ってくる。西那須野の桜の名所の一つである。
 明日は烏ヶ森公園で開墾記念祭。今年はちょうど桜の見頃である。

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2007年04月07日

開拓の恩人

 北海道は明治になり、本格的に開発の鍬が入った。その後札幌は近代的な都市へと変貌した。旧薩摩藩士である開拓史長官黒田清隆、「少年よ大志を抱け」で有名な札幌農学校のクラーク教頭がその先駆者として有名であるが、札幌市円山の北海道神宮に行くと、開拓神社に有名・無名37人の恩人が祭られている。
 回りくどい導入になったが、北海道の開拓から少し遅れて、開拓に入ったこの西那須野地区の恩人、印南丈作、矢板武らの墓前祭が今年も本日行われた。地域の顕彰会主催であるが、行政の関係者、地元の子供達も参列した式典が松林の緑の下、小鳥の鳴き声が賑やかな自然の元で行われた。
 今、栃木県内でも、有数の発展を遂げる西那須野地区。明治の時代。北海道のように、国から全面的な支援を受けず、地元の力によって、後世の繁栄を勝ち得たこの土地。陰で墓前祭の式典を見ながらご苦労をされた開拓の先達に深く頭が下がった。

tokiwagaoka.JPG

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2006年08月01日

ぽっぽ通りのその先は

 ここに面白い絵図面がある。
 大正15年の東野鉄道地図である。大正7年に西那須野駅を起点に敷設された東野鉄道が驚くことに、小川まで通じている。
touyarailmapsmall.gif
   (資料提供:大田原市佐良土多目的交流センター)
    拡大図は http://www.sosui.net/tmo/downtown/touyarailmap.htm
ぽっぽ通りは大田原日赤の所まで整備されているが、その先、トライアルの脇、光真寺の横を真っ直ぐな道が続いている。その更に先、金丸の医療福祉大の前のファミリーマートの後ろ、金丸郵便局の前を真っ直ぐな通りがある。さかいりストアー黒羽店の所に駅があった。湯津上地内では国道294号と平行に山側に真っ直ぐな道が佐良土まで続いている。これらが線路跡である。
 小学校2年生の遠足はこの東野鉄道に乗って、黒羽那珂川の河原までいった。
高校3年生の時に東野鉄道は廃線になった。
 今もJR西那須野駅から、東野バスが大田原経由黒羽までと小川まで運行している。ここに東野鉄道の名残りがある。

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2006年05月09日

地産地消の「赤レンガ」

 明治になりようやく定住者が増えた西那須野には歴史的建造物が少ない。華族農場としてこの地に別邸を設けた元勲ゆかりの建物がいくつか残るだけである。
 下永田の大田原街道沿いに、当時の大山農場の事務所だった赤レンガ造りの建物が辛うじて残り、特異な外観を生かして、一時は喫茶店としても使われた。もう1軒、並んで赤レンガの建物が残っていたが、残念ながら「もみじ通り」の建設工事で取り壊された。
赤レンガ.jpg 
      (ありし日のもう一棟の赤レンガの建物)
 このレンガは明治36年頃、大山農場内で製造されたという。確かに下永田の地主の方から「うちの田圃の下からレンガのかけらがたくさん出土したよ。なんでもレンガの窯の跡だったらしい」という話を直接伺ったことがある。色は、大山別邸のものもそうであるが、いわゆるレンガ色に比べると少し「朱色」がかかっているように見えるが気のせいだろうか。本当に「赤」レンガである。この色は原料のせいか、焼成温度のせいかはわからない。原料の粘土は地元で調達されたという。いわゆる「地産地消」である。

 現在まちづくり活動の中で、ファサード(景観)整備のコンセプトをどうしようかという議論がある。西那須野についてはこの赤レンガでのイメージ統一も候補にあがるのではないだろうか。レンガ造りの建物といえば、小樽、横浜など有名なところがあり、新規性に欠けるようだが、この西那須野のかつて地元で製造されたレンガを景観整備の目玉にするのも一興であるまいか。


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2006年05月01日

西那須野にも中世の匂い

 西那須野地区というと明治時代になってから人が住み始めたという印象が強い。
今から数年前、当時の西那須野町は「開拓120年」を祝った。そのとき土器遺跡のある槻沢に住む知り合いが「たった120年か、オラげの方は縄文時代から住んでいるのに。」とからかっていたのを覚えている。
 先日南郷屋のKさんが亡くなった。世話好きで信望があったKさんの葬儀には沢山の人がかけつけた。式中、後ろのほうに着席する参列者の中でざわめきがとぎれず何度か斎場の係から注意された。中に「27代目なんだってよ。」という声も混じっていた。後日、自宅でご遺族にお会いした時に、興味あるお話を伺った。Kさん一家は650年も前から今の土地に住んでいる由緒ある一族で、亡くなったKさんは正真正銘のその27代目であること。現在ハードオフなどの敷地の大家さんでもあるKさん宅はその昔、西那須野駅まで他人の土地を踏まずに行き来できた大地主であったとか。足利尊氏、楠正成の南北朝時代まで家系をたどれる人がここに住んでいたとは驚きであった。
 謎解きをするとこういうことである。
そもそも 「南郷屋」の地名に残るように、古くから定住者があったこの地区は
下の湧水分布図にもあるように、那須野が原扇状地の扇端部にあたる。国道400号に面するラーメン店(旧会津っぽラーメン)付近の湧き水を水源とする「正三堀」は今も新幹線下の跨線橋あたりから地表に顔を出し、乃木参道方向へ流れている。
つまり不毛の那須野が原にあっても、湧水があり水に恵まれた土地では、人を育む環境があり、代々栄える一族を支えることができたということであろう。
 湧水分布図.JPG
 水無くしての不毛の大地にも、僅かに中世の匂いがする。

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2006年04月26日

新旧の交錯する道

 「原街道」は白河市からさくら市阿久津河岸までの間、奥州街道の脇街道として整備された道である。参勤交代と重なった場合の御廻米輸送の脇道として会津藩主保科正之により正保二年(1645)に開削された。(この項、小林充の原街道 http://www.ikegami-net.com/GAKUYU/harakaido/index.html から)
 2間(約3.6m)幅の細い道が現在もとぎれとぎれながらたどることができる。西那須野地区内では槻沢で分岐して二つのルートが追跡される。一つ目は槻沢から高柳の運動公園横を通り、塩原街道と交差して旧とりせんの横を通り二つ室に抜ける道。もう一つは槻沢から石林に抜けて下永田、一区町につながるルートである。二つのルートは大田原市平沢で合流する。
 一つ目のルートは旧村の槻沢から当時のススキの那須野が原を通った、いわば西那須野で最も古い歴史をもつ「街道」である、今も南郷屋地内では「会津街道下」という旧地番名に名前を残す。この「道」は西栄町地内で4年後を目途に開通予定の「中央通り東側延伸部」と交差する。現在その道路用地の一部が更地となり杭とロープで仕切られ、工事標識が立っている。奇しくも最も歴史のある「道」と新しい「道路」が交錯する。
 今も昔も「道」の便利さは変わらない。
中央通り西栄町.JPG
中央通り案内板.JPG

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